日々、思索にふける「思考の渦」1

 最初に断っておくが、この記事は私が思ったことをつらつらと書きなぐっていくだけなので、体裁などに一切注意を払わない。ゆえに、読みにくい記事になることは言うまでもない。

 最近、色々とやるべきことが多く、記事を書いていなかったが、久々に書いてみようと思った。私はよく、人生について考えるのだが、進化の速度が指数関数的に上昇している時代において、2030年には今の社会がどのように変化しているのかを考えるのは、中世に考えるよりも想像に難い。10世紀あたりで考える10年後と、今考える10年後は全く異なっている。もしかしたら、各地にスマートシティがつくられ、人々の生活が最適化され、いくつかの社会問題は解決しているかもしれない。と、思っていたのだが、仕事に焦点を当てると、最近は特に在宅ワークにスポットライトが当てられているように思える。在宅ワーク、昔で言えば家内制手工業のようなものか、と考えている。もちろん、在宅ワークと家内制手工業は別物であるが、そうやって考えてみると、人々の生活というものは、長い時を経て進化しながらも循環しているのではないかと思う。イギリスでの産業革命によって、今まで農村で農業をし、家の中で簡単な仕事をしていた状態から、都市部に集まって工場で生産活動をするようになり、機械化により大量生産が行われるようになった。その後、蒸気機関の発明により鉄道が敷設され、人々の移動も効率化されていった。日本も産業革命を経て高度経済成長期も経験し、今では超情報化社会への扉の目の前にいる。ここまで物の豊かさが向上すると、人々は精神の豊かさを重点的に求めるようになる。その一例として、自宅と会社を往復することを克服するシステムが在宅ワークというわけだが、一見すると、産業革命前の農村の様子と似ているようにも感じる。しかし、大きく変わったのは、物理的境界線を越境することを可能としたインターネットによって、家にいながらも社会とのつながりを保てる部分である。農村から工業化を経て、情報化社会に突入したことによって、農村での生活に新時代の技術要素がもたらされたのである。一度、工業化という手順を踏んだことにより、新しいツールを手に入れて家に持ち帰ることが出来たのである。つまり私が言いたいことは、時代というものは常に全く新しい次元に突入するだけでなく、螺旋階段を上るようなものであると思う。螺旋階段を上るとき、真上から見下ろすと、周期的に同じ場所に戻ってきているように見える。しかし、側面から見れば、上に上っているように見える。時代とは、新しい発見をしながらも、しっかり元の場所にそれを持ち帰ってきているのである。そして、その戻ってくる場所こそが人間が根源的に居心地の良いと感じる家であり、さらなる幸福を得るために、再び螺旋階段を上り、工業化のような未知の世界に挑戦し、新たなツールを手に入れてくるのである。

 

 

 と、最近の私はこんなふうなことを考えている。自分が生きている間にあと何回この循環が起きるか分からないが、わからないからこそとても興味深いものもあるものだなぁ。

社会問題の時事コメント6

前回は「核家族化」について書きましたが、今回は、

   「地方について書いて行こうと思います。

 

 前回までの内容で、東京一極集中というワードが出てきましたが、これはつまり、日本国内における人や資本のバランスがかなり偏っていることを指し、ひいては地方のポテンシャルを活かしきれていないことを示している。

 

 以前の記事で、人口増減率の図を載せましたが、都市圏のみが増加し、地方は減少していました。しかし、人口が最適に配分されていれば、それだけでいくつかの問題は快方に向かうはずです。

 

 様々な場所で、地方創生や地方活性化を目指して人口を流入させる取り組みを行っている自治体があり、ある程度の成果を上げているところもありますが、やはり、全国的にはまだまだかと思います。

 

 その理由として私が考えたのは、都市(東京)と地方との間のギャップが大きすぎるというものです。どういうことかと言うと、地方に住みたいと考える人がいても、東京と比較して、インフラやサービス面において格差が大きすぎるので急な生活の変化に対応できるか不安であることがあると思います。自然の豊かさをアピールしたとしても、交通の不便さやICTインフラの不足、商業施設の種類の少なさなどがあれば、移住などを検討する際にも障害となることでしょう。

 

 つまり、都市(東京)と地方の間を取るようなちょうどよい場所が日本には少ないように思えるのです。若しくは、そのような場所があることをもっと宣伝し、広く知ってもらうことが重要なのではないでしょうか。

 

 どの都道府県、市町村でも一つや二つは必ず魅力があるものです。ただし、それだけをアピールしても、やはり限界があるのは今までの取り組みからも自明です。であれば、その魅力だけでなく、移住などに踏みとどまっている人々のニーズを調査して、その人たちに合ったまちを住民が一丸となって取り組むことで、魅力が多様化してよりそのまちの独自性が広く知られるようになり、地方が活性化するのではないでしょうか。

 

 また、その取り組みが一過性のものでは意味がありません。まちを元気な状態で維持していくためには、新たな取り組みを考えていく持続性が必要になります。常に社会の情勢に目を光らせ、新しいものや価値観を取り入れていくことが、地方創出のカギであると考えられます。

 

 

 

社会問題の時事コメント5

前回は「子供のペット化」について書きましたが、今回は、

   「核家族について書いて行こうと思います。

 

 なぜ核家族化をテーマに選んだかと言うと、前回の「子供のペット化」や「人口減少・少子化」の原因の一つに世帯構成の変化が関係しているのではないかと考えたからです。 

http://www.soumu.go.jp/main_content/000452791.pdf

 総務省の統計によると、親族世帯数に占める核家族世帯数の比率は20世紀からすでに上昇傾向にあり、2000年には81.1%、2015年には85.4%と、非常に多くの世帯が核家族化しているのがわかる。ちなみに将来推計も出ており、2035年には89.0%と、約9割が核家族世帯になると予測されている。

 

 さて、核家族化がどうやって「人口減少・少子化」や「子供のペット化」につながると考えたのか。

 

 まず、夫婦が共働きの場合を考える。

 その場合、子供を産むと、勤務中は面倒を見れない。働き方改革や育児休暇の多様化によって緩和されつつあるが、夫婦の心理としては、躊躇するのは必至であろう。

 昔であれば、夫婦がいない時間帯は家族の他の人員や隣人が面倒を見ることもできたであろうが、最近では近所でのコミュニティ意識が希薄しているように思われ、他者への信用が比較的低下していると思われる。

 

 また、子供が自立すればその世帯には夫婦のみが残され、その寂しさを避けるため、こどもを引き留めるために自分たちがすべての面倒を見て、自立を抑制させるという潜在意識が働くのではないだろうか。

 

 いま述べた二つのことは、世帯構成が多様化することで解決されるように思える。子供に目を掛ける者が多ければ、1人当たりの子育ての負担が減るし、抑制な育て方を客観的に捉えて注意することで、子育ての質を高めることにもつながる。

 

 子供にとっても、より多くの人間と接することは、長期的に見れば思考の多様化につながり、社会性を獲得していくうえで良い刺激になるのではないか。

 

 いま書いていて思ったことだが、核家族化が進行していても、家族以外の人間が家族と同様に関わり合えば、これらの問題は快方に向かうのではないか。そんなことを言ってしまっては、家族の境界線があいまいになり、「家族」という言葉を再定義しなければならなくなる。

 

 だが、時代の変遷とともに、家族の意味を考え直すことは非常に意義のあることだと思う。昔の考え方をそのまま使うのではなく、その時代に合った形で家族を意義を変えていけば、少なくとも、居心地のいい社会集団の1つとしての「家族」は、どの時代においても存在し得るのではないだろうか。

 

 

 というわけで、今回はここまでにしておきます。次回のテーマは「地方」です!詳しくは、次回のお楽しみと言うことで!

 

社会問題の時事コメント4

 前々回が「勉強」、前回が「いじめ」ときて、今回は何かというと、

「子供のペット化」について書いていこうと思います。

 

 最近、身の回りの親子を見ていると、親が子供を徹底管理し、子供は意思を持たずに言われるがままに行動している光景が目立ちます。昔からあったかと言われれば、そうなのかもしれませんが、特にこの頃は、そういった様子が目に入ってきやすいのです。

 

 皆さんもそういった光景を目の当たりにしたことはないでしょうか?

 親が、子供が他人に迷惑をかけることを過剰に避けようとしたり、子供の意見を受け入れず、自分の主張が正しいと疑わずに考えを押し付けたり、子供に対して教えていることと自分の言動が明らかに矛盾していたり、など。

 

 これはまさに、子供に対する接し方ではなく、ペットに対する躾に近いものを感じます。

 

 私は、そういった親たちを非難するわけではありませんが、親も自分の子供に対する言動を客観的に見つめるべきだと思います。また、ペット化するということは、子供は自分よりも立場が下であることを指すので、対等な関係で接することがないと考えます。対等な関係で、家族の一員として接していれば、少なくとも先にあげた例のようなことは起きにくいと考えます。

 

 私には子供がいないので、自分が親になった時のことは想像できませんが、そんな私だからこそ、お子さんをお持ちになられている親達に自分の身の振りを見つめなおすようにアドバイスできるのではないかと考えました。

 

 個人的な意見ですが、やはり自分の子供には、その子が望むような生き方をしてくれるのが親としての一番の願いではないでしょうか。その気持ちが強いがために、逆に子供の望みを阻害してしまうこともあるかと思います。そんなときは、自分の言動が本当にわが子のためになっているのかを考えることが大事だと思います。

 

 さて、次回は何について書こうか考えていましたが、今回のテーマに通づるものとして、世帯構成に関連するテーマについて書いていこうと思います。それでは、また次回お会いしましょう。

社会問題の時事コメント3

前回は「勉強」について述べたが、今回は、勉強→学校→いじめ、ということで、

「いじめ」について述べていこうと思う。

 

 今回のテーマは「いじめ」ということで、私の経験も踏まえながら、論理も用いて述べていこうと思う。

 

 まず、皆さんはいじめに関わったことがあるだろうか?

 実際、私は関わっていた方である。主にいじめられる方であるが、いじめる方になったことも、傍観者になったこともある。

 いじめの関係者は大きく分けて三つある。「加害者」、「被害者」、「傍観者」である。少数、若しくは一人の加害者が、主に一人の被害者に対していじめを行い、その他多数は傍観者であるという構図が一般的であろう。

 私は、中学生の時に2,3人にいじめられていたが、周りは知っていながらも特に何かをするということはなかった。また、私がその時感じたことに、加害者もいじめていることに気が付いていないのかということがある。

 

 その要因として考えられるのが、参考資料にある和久田学さんの著書『学校を変えるいじめの科学』にでてくる、シンキング・エラーというキーワードである。これは、「加害者被害者ほど深刻に事態を捉えていないこと」を指し、これがいじめを深刻化させているとされる。
 おそらく、皆さんも一度は感じたことがあるのではないだろうか?小・中・高のいずれかで、相手はいじめているつもりはないだろうが、自分はとてもつらい思いをしている。若しくは、自分はいじめているつもりはないのに、相手がいつの間にか嫌な思いをしていた。
 そんなことが、どの学校でも必ずと言っていいほど起きているはずである。
 
では、どうすれば解決に向かうのか?これに対して私はこう考える。
「いじめが起きることを前提として、学校生活を送る」
 
 皆さんも見たことがあると思うが、ニュースなどで学校の教育現場におけるいじめが取り上げられた時、学校側がいじめを認定していない ということがよくでてくる。しかし、殆どの場合、いじめが起きたのは事実で、学校側の主張は矛盾している。これは、「学校でいじめが起きることはあってはならない」、「学校でいじめが起きるのはレアケースだ」という先入観が蔓延しているためだと考える。もちろん、いじめは起きてはならないが、多忙な教師が全生徒にいじめを起こさせないというのは不可能に近い。
 ならば、最初から、ある程度のいじめが起きるのは当然だと考えて、その前提で行動するのが妥当ではないだろうか?
 
 北欧諸国では科学を用いたいじめ対策プログラムが実装されている。そのプログラムは他国でも用いられ、良い効果が出ているという。科学の性質の1つとして「再現性」が挙げられる。ある手法を用いてある結果が得られれば、もう一度同じ手法を試しても同じ結果が得られるという意味だ。日本でも、教師の力量に任せるのではなく、科学を効果的に用いた対策がなされることを期待する。

 

参考資料

和久田学(2019年)『学校を変える いじめの科学』日本評論社

廣田万理香(2018年)「北欧のいじめ対策-フィンランドノルウェーのいじめ対策プログラム-」『子ども学研究紀要』

世界遺産の時事コメント5

 こんにちは!この前は、バルセロナサグラダ・ファミリアをについて書きましたが、今日はヴィエリチカとボフニャの王立岩塩抗について書いていこうと思います!

 

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 スペインの遺産について書こうか迷っていたんですけど、たまにはちょっと珍しい遺産も紹介しなきゃ! と、思いまして、岩塩抗について書いていきます!

 

 この文化遺産は、ポーランドの南に位置する岩塩採掘所です。大昔は海だったのですが、地殻変動によって塩湖となり、蒸発して岩塩がザックザック採れる場所が誕生したんです!!商人にとっては最高の場所ですね!!!

 でも、なんで「文化遺産」なのでしょうか?普通だったら、自然遺産だと思いますよね?

 しかし、この岩塩抗の素晴らしいところは岩塩がザックザック採れることだけではないんです!!

 この岩塩抗は、当時のポーランドの財源の3分の1を占めるほど価値があるもので、坑道の中はとても広大な空間が広がっています。その中には、岩塩に彫られた彫刻がいくつも存在し、レリーフ彫像シャンデリアまでもがある礼拝堂が存在するのです!!

 

 このように、人間の叡智によってデザインされた岩塩抗文化遺産として登録されることとなったのです!!

 

 

  次回は、アジアの世界遺産を紹介しよっかな~と思っているんですけど、急に心変わりすることも多々あるので、何が出てくるか、お楽しみに!

 では、皆さん、またね~!!!!!

参考文献

宮澤光(編)(2018年)『すべてがわかる世界遺産大辞典〈下〉世界遺産検定1級公式テキスト』NPO法人世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局

社会問題の時事コメント2

 前回は、「人口減少・少子化について自分の考えを述べたが、

 今回は、「勉強」について述べていこうと思う。

 

 突然ですが、皆さんは「勉強」と聞いて何をイメージするだろうか?

 

  「椅子に座って、教師の話を聞くこと」

  「教科書の内容をひたすらノートにまとめること」

  「たまに行われるテストに合格するために行う作業」

 

 皆さんの中には、上に挙げたようなことをイメージする人が大半ではないだろうか?

 しかし、それらは勉強のほんの一部でしかない。

広辞苑第六版によると、勉強とは、

①「精を出してつとめること。」

②「学問や技術を学ぶこと。」

③「商品をやすく売ること。」

 と、載っている。

 

 皆さんのイメージに最も近いのは、②であろうか。しかし、ほかの2つも考慮に入れると、単に座学のみが勉強ではないことは明白である。

 

 最近、「アクティブラーニング」や「フィールドワーク」、「ワークショップ」などの活動を取り入れる教育が増えてきたように思うが、そもそも勉強とはそういうものであり、我々が固定観念に縛られていただけなのである。

 

 しかし、特に10代前半の学生には、その固定観念がびっしりと根を張っているように思えてならない。私も、それくらいの年齢の学生と触れ合う機会があるのだが、「勉強は、特定の機関に所属するか、教師や専門家から教えてもらうしかない」と思い込んでしまっている学生が殆どのように感じる。実際は、日々生活する中で、疑問に思ったことを自分で調べるだけでも十分勉強の定義に入ると思うのだが、そのようなことに意識を向けている者は少ないように思える。

 

 恥ずかしながら、私も昔は彼らと同じように勉強というものを捉えていたが、今では少し後悔している。昔はもっと時間があったのだから、より多くのことに興味を持ち、自分で調べていたら、もっと自分の思考も豊かになったであろうに、と。

 

 これは、私の経験則からの意見なので、明確な根拠があるわけではないが、もし今この記事を読んでいる学生や学生を子にもつ親がいれば、勉強の再定義をしてほしいと思う。

 先ほど、広辞苑から引用したものを書いたが、人によって勉強のイメージは多種多様であるのが事実である。しかし、本当にそのイメージが自分に合っているのか、矛盾を感じていないか、そういったことに一度思考を巡らせてほしい。そうすれば、勉強に対する考え方が変わり、価値観も変わることだろう。実際、私もそうだったからである。